第2回 ランタン

長崎は異国情緒あふれる街といわれる。数百年の間に海外から多様な人、物、文化が流入したからだが、長崎をさるいてみれば、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスといった南蛮、西洋のみならず、中国文化の影響があることに気づく。...
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長崎は異国情緒あふれる街といわれる。数百年の間に海外から多様な人、物、文化が流入したからだが、長崎をさるいてみれば、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスといった南蛮、西洋のみならず、中国文化の影響があることに気づく。年中行事から祭祀、料理、音楽、建築、生活の隅々にいたるまで中国から伝わり長崎で継承されているものは多い。たとえば春節(旧正月)は中国および中華文化圏の重要な祭事であるが、長崎市でも春節から15日間「長崎ランタンフェスティバル」が開催される。約1万5000個の彩り豊かなランタン(中国提灯)が市内各所で一斉に灯され、中国風のおめでたい演目を多数見ることができる。

祭りの場は長崎華僑と縁が深く、唐人屋敷跡、新地中華街、崇徳寺、興福寺、眼鏡橋、孔子廟はランタンで華やぐ。唐人屋敷と新地は鎖国下で中国の人々を住まわせた地域、崇徳寺と興福寺は華僑が菩提寺とする唐寺、眼鏡橋は興福寺の住職が架けた橋、孔子廟は清朝と華僑が造ったものである。真紅、薄紅、黄色などランタンはどれも美しく「長崎燈會」の文字も見える。関帝、媽祖、干支の動物像がライトアップされ、賑やかな龍踊(じゃおどり)、中国獅子舞、パレードが繰り出す眺めは盛大で、ランタンの輝く道をさるくのは幻想的で夢のようである。

長崎に中国人が住み始めたのは1600年頃という。小さな漁村に過ぎなかった長崎はキリスト教と南蛮文化の拠点として栄えたが、禁教と鎖国により対外貿易はオランダと中国に限定されていく。江戸幕府はオランダ人を出島に、中国人を唐人屋敷に住まわせるが、オランダ人より中国人がはるかに多く、出島の人数20人以下に対し唐人屋敷は5,000人近くであったという。後に唐人屋敷が大火に遭い、敷地確保のため海を埋め立てた人工島が新地と呼ばれた。これが現在の長崎新地中華街となる。

何世紀も住み暮らした唐人の子孫に開国後来日した人々も加わり、華僑は現在もその伝統を守っているが、明治から昭和と戦争が続き、日本と中国の狭間は平たんな道のりではなく、長崎に「落地生根」(らくちせいこん)(※)するまで彼らの生活には変化と試練があった。唐人屋敷時代に祝った春節も戦争や高度成長期の陰で廃れたことがある。1980年代に若い世代が伝統を見直し、新地に中華門が完成した折に催した春節の灯籠祭が再興の兆しとなり、長崎の冬の風物詩としてのランタンフェスティバルに規模拡大したのは1994年からである。

ランタンの灯りに照らされた新地中華街は、実際にさるくと意外に狭い。しかし中国文化の影響は中華街の外に広がっている。長崎くんちに欠かせない桃饅頭、端午の節句の唐灰汁(とうあく)ちまきとペーロン(競漕)、ハタ(凧)揚げも墓地に祀る土神様も、唐人から広まって今や長崎の風習である。特産のビワもザボンも唐人にもらった種が始まりで、ちゃんぽんと皿うどんは華僑の創作料理、中国にはない長崎の味だ。ルーツは中国だが長崎で花開き実を結んだものに気づくたび、人間の文化はこうして伝わり、変化し、多様化していくのだとしみじみ思う。

(※)「落地生根」(らくちせいこん)
一粒の種が地に落ちそこに根を張るという漢語。故郷を離れ異国に根を下ろす華僑の生き様を表す。

長崎ランタンフェスティバル(参考)
http://www.at-nagasaki.jp/festival/lantern/
http://www.nagasaki-tabinet.com/event/festival/lantern/

えふなおこ(Naoko F)/プロフィール
子供時代から多様な文化と人々に触れ、複数の言語教育(日本語、英語、スペイン語、フランス語、韓国語)を受ける。テレビ局、出版社、法律事務所勤務を経てフリーランサー(翻訳、ライター)。得意な分野は比較文化、比較言語、ミックスルーツ、転勤族、国際スポーツ、契約書全般。移動の多い生活をしながら、育児と仕事の両立に奮闘中。