第11回 村の小さな芸術家

 
子どもたちは5歳を過ぎる頃には畑に出る。ブルキナファソ西部の村にある、当時私が暮らしていた村には小学校があったが、親たちは大切な働き手を学校へやりたがらず、就学率はいっこうに上がらなかった。
村には小学校しかなく、中...
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こちらは“ごっこ”ではない本物の仮面

子どもたちは5歳を過ぎる頃には畑に出る。ブルキナファソ西部の村にある、当時私が暮らしていた村には小学校があったが、親たちは大切な働き手を学校へやりたがらず、就学率はいっこうに上がらなかった。

村には小学校しかなく、中学以上へ進学するとなると町に下宿させねばならない。それでいて高校を卒業しない限り、その子が畑仕事しなかったことに代わるほどの収入を得られる高収入の仕事に就くことはできない。よほどの余裕がある家庭でなければ、子どもを学校へ行かせようとは思わないだろう。

私の居候先だった村長の一家は村では裕福な部類に入るが、18歳を頭に26人いた子どもたちの誰も学校へ通わせたことがなかった。この年、第1夫人の三男と第2夫人の長男、そして第5夫人の長男の3名が就学年齢に達しており、連日、学校の先生たちは村長宅へ通って就学させるよう説得していた。最終的に、第5夫人の息子アロルベを除く2人の子どもを小学校へ行かせることに村長は同意した。

アロルベだけが畑へ行くことになったのは、彼が幼い頃の事故で片目を失明していたこと、母親が第5夫人で家庭内の立場が弱かったことなどが影響したのかもしれない。よそ者が口出しできる問題ではないのでどうしてやることもできなかったが、個人的に彼を気に入っていたので残念でならなかった。

アロルベはとても利発で好奇心旺盛な子で、私がお土産に持って行った動物図鑑がことのほかお気に入りだった。毎日やってきてはページの隅々にまで見入り、挿絵を真似た絵まで描いて見せてくれた。実際、アロルベはちょっとした“芸術家”だった。ダンスや歌、そしてなにより工作が得意だったのだ。


この村では仮面文化が盛んだった。葬儀や成人式といった様々な機会に村の男たちが仮面をつけて現れ、広場の中心で人びとの注目を一身に浴びて踊る。仮面をつける資格があるのは成人男子のみのため、小さな子どもたちはいつか自分が仮面をつけて踊ることを夢見ていた。

そんな子どもたちはよく“仮面ごっこ”をする。お手製の仮面をかぶりバケツの底を叩きながら、本物の仮面さながらに踊り歩くのだ。そんな時、アロルベはスターだった。踊りの巧みさもさることながら、彼の作る仮面は本物そっくりの出来なのだ。

仮面を彫ることが許されている一族は決まっており、それ以外の人間が作ることはかたく禁じられている。だから子どもたちは本来は木で作る仮面を泥で作り、大きさも本物よりうんと小さい。それでも表面の細かい模様や繊細な飾りは省略することなく泥の仮面にも盛り込む。なかでもアロルベの作る仮面は実によくできていて、本物と寸分たがわないミニチュアだった。ほかにも彼は草で帽子や腕輪を編むのも得意だし、絵もうまい。

アロルベが工作やお絵かきが上手なのは才能もあるだろうが、別の理由もあった。村では塀で囲った同じ敷地内に、夫と妻たちが各々別の小屋を建てて住む。昼間は異母兄弟たちとわいわいがやがややっていた子どもたちも夜ともなれば各小屋へ入り、同母の兄弟同士で歌ったりゲームをしたりして過ごす。

本来ならアロルベくらいの年になれば兄弟の2、3人もいるものだが、彼のあとに生まれた4人の弟妹は生まれて間もなく亡くなってしまっていた。だから彼は夜、ひとり遊びで過ごすしかなかったのだ。


一族の長老が彼につけたアロルベという名前は「世界を知れ」という意味だ。畑以外の人生の可能性を示してくれる学校へ行くとということがどういうことなのか、彼自身にも両親にもこの時はわかっていなかった。9月から同い年の兄弟たちは小学校へ行く。その時はまだ兄弟たちと共に畑へ向かうアロルベの背中を見て、彼がこれから知る世界が彼にとって幸せなものになることを願わずにいられなかった。

この記事は『こどものとも 年中向き』1998年9月号(150号)折り込みふろく『子どもたちは今 -ブルキナファソ編 その2 ヌママの小さな「芸術家」』を加筆・修正したものです。

板坂 真季(いたさか まき)/プロフィール
あの時、村長の子どもたちの中でも特に利発だったアロルベこそ、学校へ行かせるべきなのにと私は思った。しかし「賢い子が学校へ行くべき」というのは私の価値観ではないのかと思うと何も言えなかった。同じ立場だったら他の人はどうしたのか。誰かに聞いてみたい気がする。