ドイツに住んで22年。見よう見まねで通訳をはじめ、はや20年近くになる。通訳とは、ある言語で聞いた文を別の言語にして表現することだが、どうして奥が深い。個々の単語の意味だけでなく、全体を理解して表現しなければならず、知識と訓練を要する技能である。この連載では、通訳をしていて個人的に感じたことを書いていきたい。
私がしているのは逐次通訳である。誰かが喋ったことを聞き終えてから、訳すもので同時通訳とは違う。外国に住んでいると、日本人が少ないという理由で通訳する機会が回ってくる。最初はハノーファー大学に通いながら、市民団体や学校のグループなどでボランティア通訳をした。失敗は多々あったし、穴があったら入りたいような恥ずかしい間違いもしたが、とにかく実践あるのみ。そのうち大学を卒業し、あちこちで通訳するようになり、6年前に法廷通訳になった。これはドイツの裁判所が出している通訳者の資格であり、あわせて住民票や免許証など公的書類の翻訳認証もできるようになった。頭に入った言葉を自分の中で処理し、別の言語でうまく外に出せた時はすっきりする。けれど、もともと独学だからときどき舌が滑る。
通訳を頼む人の中には、通訳者は万能だと思っている人が少なくない。いかなるテーマや専門用語でもすらすらと訳せて 当たり前だと思っている。実際のところ事前情報がなく、会社名や個人名をものすごい速さで羅列されると、とても太刀打ちできない。日本語特有のあいまいな表現で、何がいいたいのかさっぱりわからないこともある。数人での会合ならその場で聞き返すことができるが、人前でのスピーチのときは聞き返すことができない。焦るあまり、汗をだらだらかきながら通訳したことが何度あることか。
先日、 比較的改まった場で通訳をした。企業や行政の要人がいる場で、100人を前にすると緊張する。しかもドイツ人の大臣のあいさつは、事前にもらったテキストから微妙に逸脱している。まったく違えばテキストを放り出すのだが、微妙に違うと耳は演説を、目はテキストを追ってしまいかえってやっかいである。あいさつの最後、私は「健康と幸せをお祈りします」と訳してしまった。本来は「ご健勝とご多幸をお祈り申し上げます」と訳すべきところである。ドイツ語の原文は同じであり、上記のふたつの日本語も意味は同じである。しかし日本語には場に合わせた表現が求められ、意味が通じればいいというわけではない。またまた冷や汗をかいた。
≪田口理穂(たぐちりほ)/プロフィール≫
1996年よりドイツ在住。在独ジャーナリスト、ドイツ州裁判所認定通訳。
久しぶりに新聞の定期購読をしている。新聞を読んでいると、わかっているつもりで実はよくわかっていなかったドイツ語が多々あることに気づいて、これまた冷や汗。久しぶりに分厚い辞書を取り出し、赤ペン片手に頁をぱらぱらめくりながら単語をチェックしている。学生時代を思い出すなー。