第3回 旅はオール・ザット・ジャズ

ロサンゼルスやサンフランシスコに比べると、かなりマイナーなカリフォルニアの州都、サクラメントの飛行場に着陸するや否やパニックに陥った。サクラメント空港は、私が出発してきた小牧空港のような規模だと信じ切っていた私は、Sちゃんに「何日何時に着くから迎えに来てね」と言っただけ……。大きな空港の出口にSちゃんの姿は見えず、30分以上が経過した。ここでSちゃんに会えなかったら、この旅はどうなるんだろう……と、独りになった空港の出口ホールで最上級の不安を抱いて小さくなっていた。1時間ほど経った頃、無邪気な笑顔でSちゃんが現れ、事なきを得た。

西海岸の彼女の生活はとても楽しそうで、彼女を訪ねて来て本当に良かったと思った。この後、私はロサンゼルスからNYへ発つ予定だったので、ほぼペーパードライバーのSちゃんとレンタカーで出発した。復路はSちゃんが一人で運転することになるので、行きは私がハンドルを握ったのだが、ロスまでは約7時間。恐ろしいほど真っ直ぐな道も、車線が十以上ある大都会へ行ったのも、大きなアメリカ車を運転したのも初めてだった。二日後、一人で運転するのが心細そうな彼女はロサンゼルス空港からサクラメントへ。私はNYへ飛び発った。

マンハッタン到着は夜だった。街の明かりが反射してキラキラと輝く、雨上がりのアスファルトの美しさに感動しながら、ホテルを出てデリカテッセンまで歩いた。古臭く狭いホテルの部屋の窓からは、高層ビルの間を縫って届くサイレンの音が絶え間なく聞こえた。嬉しくて眠れない私は、ベッドに仰向けになってビリー・ジョエルの『New York State of Mind』を口ずさんだ。

翌朝、日系の立派なホテルに移り、仕事仲間に紹介してもらった在NY写真家Iさんに連絡すると、その晩のホーム・パーティーに誘ってくれた。行ってみると在NYの邦人や、日本から来た友人らが既に集まっていた。ひとしきり盛り上がった後、「今夜、どこへ行きたい?」と問われ、「ナイト・クラブ! 」と答えると、即刻車で移動。体中に浸透する大音響をエネルギーにして数時間踊った。ホテルに帰ったのは午前4時を過ぎており、宿泊代は高価なシャワー付き仮眠代となった。次の日からは、Iさんから教えてもらった現金日払いの格安女性専用ホテルに移った。

日曜の朝はハーレムに行き、ゴスペルのミサを捧げる教会を探した。当時 「危ない界隈」のレッテルを拭えきれずにいたハーレム地区はガイドブックに掲載されておらず、現地で道行く人に問いかけながら教会を探さなければならなかった。たどり着いた教会では、本物のゴスペルを経験し、震えるほど感動した。

ジャズ情報はフリー・ペーパー『ヴォイス』でチェックし、6月12日のマル・ウォルドロンのライブを予約した。グリニッジ・ヴィレッジの有名ジャズ・クラブ、スイート・ベイジルに入り「一人で予約を入れた知子だ」と言うと、ラッキーなことにステージに一番近いテーブルに通された。名曲『レフト・アローン』などお洒落なクインテットを聞くお供に、グラス・ワインを頼んだが味はどうでも良かった。

ライブの途中で、2ステージ目を予約していたとおぼしき男性がテーブルの向かいに座った。やがてステージ間の入れ替えタイムになり、お勘定をしようとバッグを開けた時、ちょっとしたギフト用に和紙小物を持って来ていたことを思い出した。向かいの男性に和紙小物を差し上げるつもりで、拙い英語で「ジャズが好きで日本から来た」などと、たわいもない話を振ってみた。彼は映画の仕事でNYにはよく来るパリ在住のフランス人で、この店ではいつもこのテーブルを予約してミュージシャンの写真を撮るのだ、と言った。ジャズをネタに会話は弾み「もし良かったら2ステも見ない?ご馳走するよ」と言われて快諾した。ステージが終ると「この近くにあるブルーノートで、バリー・ハリスが今頃セッションしてるから、これから行くんだ。もし良かったら一緒にどう?」と誘われ、有名クラブをハシゴすることになった。

 

Tomoko FREDERIX (ともこ・フレデリックス)/プロフィール
1994年より在仏。トラベル&文化ライター、コーディネイター業などのかたわら、ウェブマガジンFrench Culture Magazineで独自にフランスの情報発信をしている。2019年から、在仏25周年未亡人歴20周年を記念した当エッセイを連載し、将来はフランス在住邦人女性の未亡人体験談をまとめた〈ヴーヴ・ジャポネーズ達のフランス(仮)〉、〈私小説・NY発パリ経由ノルマンディー不時着(仮)〉を発刊予定につき、出版社を募集中。