第5回 アンティのチャイとビスケットの記憶

恐ろしい事件など治安面への緊張はごく一部のこと。インドでの日常は、人の出会いに救われながら、今ほど情報過多ではない環境下で緩やかに過ぎていった。

夫の転職により、大家の部屋を間借りしていたニューデリーを離れ、集合住宅に引っ越した。インドによくある高層かつ棟数の多い団地で住人も多かった。私は第1子を妊娠中で、身寄りに頼ることのできない新天地での暮らしに不安だった。しかも、予定よりもひと月早く長女を出産、日本から義理の母が1週間だけ来てくれたが、そのあとは本当に一人きりだった。朝から電気をつけるような薄暗い部屋で生まれたばかりの長女とどうやって過ごしたのか、殆ど記憶がない。必死だったのだろう。

しかし、数ヶ月後にはベビーカーで外に連れ出せるようになり、私たちの世界は急に広がった。インド都市部の大気汚染は深刻であり、毎日家に侵入してくる粉塵を見れば、外気がきれいでないことはわかっていた。それでも、初めての育児で煮詰まっていく自分が嫌で、ブーゲンビリアの咲き乱れる敷地の中を、散歩好きなインド人たちに混ざって、ひたすら歩いた。

そのうち、時々見かける白髪の婦人と挨拶をするようになった。インド人は子ども好きな人が多く、よく声をかけられたものだ。中でも、その婦人とはすぐに親しくなり、家に招かれるようになった。インドでは、婦人のことを「アンティ」と呼ぶ。私は、毎日のようにアンティの家に長女と押しかけ、彼女の淹れたチャイにビスケットを浸しながら、果てしなく続く育児に一息ついたものだ。

当時、アンティは、夫、息子夫婦と暮らしていたが、一人娘は結婚してアメリカにおり、寂しさを感じていたようだ。そこに寄る辺のない外国人である私たちが現れたというわけだ。アンティは、私たちを実の娘と孫のように可愛がってくれた。実は、アンティは殆ど英語を話せない。公用語であるヒンディー語に出身地のベンガル語、そこに英語を交えて話すのだが、当時の私は全体の3割程度しか理解できていなかったと思う。それでも、一緒に過ごす時間が楽しみであり、互いに救われていたのだろう。

民族衣装を着た長女に、ティカというヒンドゥー教の赤い印(ビンディー、ティカなどと呼ばれる)をつけるアンティ

アンティのチャイとビスケットがおやつだった長女は今年で11歳になる。赤ちゃんの時から4歳で他の街に引っ越すまで、アンティにあれだけお世話になったのに、彼女にはその記憶があまりないようだ。しかし、今でもインドで量販されているビスケットが大好きだ。おふくろの味ならぬおばあちゃんの味がそこにあるのかも知れない。

 

さいとうかずみ/プロフィール
インドのIT都市ベンガルール(旧名バンガロール)在住。2007年より8年インドに居住してからの出戻り。在宅でスマホにより食料品、日用品、食事などを注文、デリバリーしてもらい、電子決済でチップも払っているからノーストレス、という便利生活を満喫中。でも、一歩外に出れば、牛やリキシャや車が我先にと道路に入り乱れ、ゴミの山のせいで渋滞していて「インドはやっぱりインド」と失笑。