第6回(最終回) 可愛い子には旅をさせろ(予告編あとがき)

斯くして一本の電話の後、ベルナールとは手紙、電話のやりとりが始まり、やがてパリ、名古屋間の超遠距離恋愛に変わった。渡仏するまでの数年の間に、色々なことが起きたし、一年に一回以上彼に会うためにパリへも行った。人生において一番重大だったと言える決心、つまり渡仏するかどうかについて悩んでいた時期は、葛藤の嵐に巻き込まれ、ストレスにより歯茎は化膿し、頭は円形脱毛症になった。

「今、この人を好きと言えるが、男性と一緒に暮らしたことのない私が、フランスでフランス人、しかも世代も違う彼と楽しく生きていけるのだろうか?

彼がプレゼントしてくれたフランス語教本で語学もかじったが、英語と違って私には難しい。いつかは話せるようになるのだろうか?フランス語ができなくてもできる仕事など、見つかるのだろうか?

フランスへ移住するなら、ビザもいる。つまり、彼と結婚をしなければフランスにいられない。第一、結婚など夢見たことも無いこの私が、好きな人と生きるためだけに、外国に行って、仕事もせずに暮らしていけるのだろうか?

母親は、私が地球の裏側に行ってしまうことを、ひどく悲しがるに違いない。これから死ぬまでに、数回しか会えないかも知れないと思うと私も悲しくなる。外国人が大嫌いな父親は、親子の縁を切りたがるかも知れない。祖母は私にもう二度と会えなくなる、と大泣きするだろう……。私は、なんて親不孝者なのだろう」 

いろいろな思いの中、結局、「私は誰かのために生まれてきたのではなく、自分の人生を歩むために生まれてきたのだ」と自答し、「ベルナールとの結婚は失敗するかもしれないが、将来、後悔するのなら何か実行したことに対して後悔したい」と強く思った。6時間以上電話で話をした1994年1月22日、その年の秋から二人で一緒に暮らしていくことを決めた。

そして1994年12月に、父親ほど年の離れた彼とパリで結婚した。

だが、幸せな日々は長続きしなかった。5回目の結婚記念日を迎えることなく、私はパリで未亡人になってしまった。

葬式を済ませてから、しばらくは自分自身の存在すら実感できなくなっていたが、「この悲しさは、私が得た幸福と同じ深さで、これが私の人生なのだ」と言い聞かせながら涙を飲み込む日々が続いた。

あれから20年。今は、全く別の形の幸せを得て、ノルマンディーの田舎でこれを書いている。

近い将来、この予告編エッセイの続きとして、自身の人生をなんらかの形で語るつもりだ。一回の旅が私の人生を変えたこと、旅によって変えられた人生が素晴らしい経験になるかもしれないこと、同時に、厳しい試練が待っているかもしれないこと、そしてそれらを私はどうやって乗り越えてきたかを伝えられたらと思っている。

 

Tomoko FREDERIX (ともこ・フレデリックス)/プロフィール
1994年より在仏。トラベル&文化ライター、コーディネイター業などのかたわら、ウェブマガジンFrench Culture Magazine(www.frenchculturemagazine.com)で独自にフランスの情報発信をしている。2019年から、在仏25周年未亡人歴20周年を記念した当エッセイを連載し、将来はフランス在住邦人女性の未亡人体験談をまとめた〈ヴーヴ・ジャポネーズ達のフランス(仮)〉、〈私小説・NY発パリ経由ノルマンディー不時着(仮)〉を発刊予定につき、出版社を募集中。