第5回 1990年夏

旅行から帰国した週末明け、上司や同僚への土産を持って会社に出勤した。部長には朝一番に挨拶し、N.Y.で大変お世話になった写真家のIさんを紹介してくれた大阪の編集仲間、K社長には、数ページにわたる旅の報告と心からのお礼をファックスで送った。

数日後、プリント写真が仕上がった。当時の事務所のルールに従い、写真をアルバムにして共有スペースに置いておくことにした。土産話にかわるよう、写真にはキャプションを書いた付箋を付けていった。その時初めて、N.Y.の興奮や感動を伝える写真が少ないことに気が付いた。写真を撮るのを忘れるほど、興奮しっぱなしだったからだろう。スイートベイジルで知り合ったフランス人のジャズ友、ベルナールとの記念写真は、自動シャッターで撮った一枚のみで、しかも、彼の頭が切れた間抜けなものだった。その写真には、「スイートベイジルで出会ったフレンチと」とキャプションをつけた。

この、子供の頃からの夢を実現したアメリカ旅行は、私の人生にとってマイルストーンとなったが、同じ年の夏には、もう一つの夢、“名古屋での独り暮らし”が今や現実になろうとしていた……。

その頃住んでいた岐阜の実家から事務所がある名古屋市東新町までは、1時間半以上かけて通勤していた。自宅から名鉄岐阜駅まではバス、それから電車で名古屋駅、その後地下鉄に乗らないといけなかった。名鉄岐阜駅はすべての列車が始発なのだが、座席を確保するためには、雨の日も風の日も、ホームで15分ほど並んで待って、空の電車に素早く乗り込む必要があった。始発時点で座れないと、途中の駅から、痴漢やスリがいても身動きがとれないラッシュ地獄に巻き込まれてしまう。この苦痛を避けるため、朝7時前に出発するバスに乗って家を出るのが日課だった。

こんな生活には、うんざりしていた。通勤ラッシュの無い名古屋市内での独り暮らしを、長年夢みていたが、高給取りでもないのに金遣いが荒い私にとって、毎月6万円は固いだろう家賃を捻出することなんて不可能だと諦めていた。

そんな私に、独り暮らしのチャンスがやって来たのは、N.Y.旅行に出発する数ヶ月前だった。職場のリーダーMさんのコネで、激安物件が見つかったのだ。名古屋市内の小さなアパートは8月中旬から入居可能で、家賃は丁度、会社から支給される実家から事務所までの交通費プラスαほどだった。つまり、名古屋市内への引っ越しを会社に申告せずに、岐阜からの交通費をもらい続けることにすれば、家賃を支払うための節約努力は、ほぼ要らない、と目論んだ。こんな良い話は二度と来ないと思い、即答で契約してあったのだ。

N.Y.から帰国して、アパート入居までの約2ヶ月間、「もうすぐ、憂鬱なラッシュ地獄から解放され、うるさい親の干渉からも逃避できる独り暮らしが始まるんだわ」と思うと、嬉しくて仕方なかった。仕事帰りにアパートで使う雑貨を買ったり、同僚から要らなくなったソファベッドをもらう約束をしたり、実家と行き来するために安価な中古車を購入したり……と、着々と準備を進めていた。

そんなある日、出勤前に電話が鳴った。

こんなに朝早く、誰だろう? と思って電話に出ると、

「……ア、……アロー?」

というシャイな声が聞こえた。パリに住むN.Y.のジャズ友、ベルナールだった。

Tomoko FREDERIX (ともこ・フレデリックス)/プロフィール
1994年より在仏。トラベル&文化ライター、コーディネイター業などのかたわら、ウェブマガジンFrench Culture Magazine(www.frenchculturemagazine.com)で独自にフランスの情報発信をしている。2019年から、在仏25周年未亡人歴20周年を記念した当エッセイを連載し、将来はフランス在住邦人女性の未亡人体験談をまとめた〈ヴーヴ・ジャポネーズ達のフランス(仮)〉、〈私小説・NY発パリ経由ノルマンディー不時着(仮)〉を発刊予定につき、出版社を募集中。