椿は日本原産の植物で、長崎県に広く分布し、冬から春にかけて咲く。美しいだけでなく、実から良質の油が取れる。「県の木」でもある椿は、長崎の潜伏キリシタン、カトリック信仰と縁が深い。これは、伝道師バスチャンの伝説から始まる。日本人だが洗礼名のバスチャンでのみ知られるこの人物が椿の幹に指で十字を印すとくっきりと十字架が浮き出たそうで、キリシタンたちはこれを霊樹とした。
迫害が激しくなり、この椿が伐採されそうになったので、信徒たちは先にこれを切って木片にして配り、大切に保管した。長崎市外海歴史民俗資料館には、禁教時代のマリア像やロザリオとともに「バスチャンの椿」の一片が展示されている。バスチャンは、潜伏キリシタンの信仰に欠かせない「バスチャンの暦」や「バスチャンの予言」を残したことでも有名である(バスチャンの詳細は第5回「外海(そとめ)」参照)
多数のキリシタンが移住した五島列島は椿が自生し、良質な椿油の産地である。五島の方言で椿の実を「カタシ」と呼び、椿の花や木そのものを指すこともある。以前、年配のクリスチャンの方から「椿は花の首がポトンと落ちるので縁起が悪いという人もいるが、私の故郷では椿をカタシと呼び、『信仰固し』に結びつくので、お墓にも供えます」と聞いた。長崎県内に130を超える教会があるが、そのうち約50は五島列島にある。迫害を逃れて移り住んだ人々の子孫が、苦難を乗り越えて建てた教会のステンドグラスや内装に椿らしい花が見られることが多く、四弁の花びらで十字のように見える。この花十字は長崎市内の教会でもしばしば見かける。
長崎の潜伏キリシタンの多くは禁教が解かれるとカトリックに復帰したが、復帰せず先祖代々の信仰形式を守る「かくれキリシタン」(カクレ、隠れとも)が少数だが存在する。現在もかくれキリシタン信仰が続く平戸の生月(いきつき)では、ある人物が赤い椿とともに描かれた「お掛け絵」がある。椿の花は首から落ちるので首をはねられた聖人、洗礼者ヨハネの絵ではないかと伝えられる。春にはこのお掛け絵に椿が供えられる。禁教下の長崎では椿とキリスト教が独自に結びついていったようだ。
椿がヨーロッパに初めて紹介されたのは江戸時代、長崎の出島商館医ケンペルによる。但しこれは著書の中であって、実物の椿をヨーロッパに持参したのはイエズス会宣教師のカメル(フィリピンから種を運んだ)。椿の学名はカメルにちなみカメリア・ジャポニカCamellia japonicaである。椿の仲間のサザンカをヨーロッパに初めて紹介したのはやはり出島商館医のツュンベリー(ツンベルク)で、こちらの学名はカメリア・サザンカCamellia sasanquaという。2人の後に出島商館医として来日したシーボルトは『日本植物誌』に椿を掲載している。
長崎市内、西坂の丘にある日本二十六聖人記念館の入り口には椿のステンドグラスがある。椿の赤い花が散らばった様子は、殉教者の血と足跡をイメージしているという。これを設計した今井兼次は、スペインのアントニオ・ガウディの作品を日本に紹介したことで良く知られているが、日本二十六聖人記念館とその横にある聖フィリッポ教会は、バルセロナにあるガウディ建築のスタイルを思い切り意識したモザイクばりデザインである。西坂には二十六聖人処刑後にキリシタンたちが26本の椿を植えたという逸話があり、列聖150周年(2012年)にカトリック関係者らによって椿が植樹された(西坂の詳細は第3回「殉教の丘」参照)
長崎の浦上では明治になってもキリシタン大弾圧があり、「浦上四番崩れ」によって数多くの信徒が全国各地に流刑にされたが(第7回「浦上」参照)、その配流地のひとつに「椿谷」というところがある。鳥取市の中心から約1.6kmの場所で、この地名はもう使われておらず、地図にも載っていないが、かつてここにあった椿谷牢に浦上キリシタンが幽閉されて45名が殉教、付近に埋められたといい、カトリック鳥取教会が巡礼とミサを行っている。椿谷に実際に椿の花が咲いていたのかどうか、今となってはわからないが、長崎には椿とキリシタンが結びつくエピソードが多くて興味深い。
(参考)
バスチャンの椿/五島市椿情報 /恵みを享受してきた椿の島/かくれキリシタンと聖人信仰/日本二十六聖人記念館 /西坂巡礼所 椿の植樹 /椿谷巡礼
《えふなおこ(Naoko F)/プロフィール》
子供時代から多様な文化と人々に触れ、複数の言語教育(日本語、英語、スペイン語、フランス語、韓国語)を受ける。テレビ局、出版社、法律事務所勤務を経てフリーランサー(翻訳、ライター)。