第10回 お母さんが学生になると

学校に戻ったとき、最も気を使ったのは家族の健康管理だった。授業と病院研修は休めない。自分でしっかり先生の話を聞かないと、気がすまなかった。授業にきっちり出て理解し、分からなければすぐに質問しないと、遅れてついて行けなくなる恐怖感があった。近眼の私は最前列の真ん中に座った。この位置だと、先生とすぐに話せるという利点もある。いつの間にか、ここは私の指定席になっていた。

息子たちは6歳と3歳だった。下の子は学校内にある託児所に預けた。上の子は、週に数回ほど姑が学校へ迎えに行ってくれた。利用できるサービスを活用し、助けの手を差し伸べてくれる人には甘えた。大学時代と全く異なる分野に中年で挑んだのだが、意外にも勉強が楽しかった。なぜか成績もよかった。脳神経生理学のテストで満点を取ったときのことだ。若い男性クラスメートが驚いた。

「子供育ててるんだろ? よく勉強する時間あるよね」

つまらない欲が出てきた。英語が下手な中年の子育て中ママだってできる、と証明しようと思った。全科目でAを取って卒業しよう、と。しかし、勉強する時間は限られていた。子供は悪さばかりして、いつも尻拭いしなくてはならない。夫は協力的ではなかった。たとえば月曜日にテストがある前の週末、彼は手伝ってくれるどころか黙って出かけてしまった。

プログラムが始まって最初の一年、私は全科目をAで終えた。病院での研修もなんとか乗り切った。二年目の最初の学期だった。私は誘発電位というクラスで少しつまづいた。すっと頭に入って来ない。焦りがつのった。この頃、ある出来事でカリフォルニア州には緊張感が高まっていた。2009年、強力な豚インフルエンザ(現在は新型インフルエンザ(H1N1)と呼ばれる)が大流行したのだ。長男が通っていた週末の日本人学校からは、子供が病気になったら登校させないようにというお知らせが来た。

私たち家族は、帰宅すると手を洗ってうがいをした。このインフルエンザは、私のような中年はかかりづらく、子供が危ないということだった。最初に発熱したのは次男。託児所に行っているせいだったのか。数日後、長男も体調を崩した。恐れていたインフルエンザに感染していた。病気の子供を人に預けるわけにはいかない。今度ばかりは、母親の私がそばにいてやらなければならない。初めて学校と病院研修を休むことになった。日本人学校で毎年開催される、秋の運動会は見送った。このとき、母親が勉強することの大変さを痛感した。子供の病気は、私がどんなに努力しても防げない。

授業に出られなかったのは辛かった。私は誘発電位のクラスで、初めてBを取った。夫は就職したら、学生時代の成績は関係ないと言って大笑いした。

全科目Aの目標は達成できなかったが、一応優秀な成績でプログラムを終えることはできた。卒業式のとき、一気に思いが爆発した。名前を呼ばれてステージに上がると、涙が止まらない。客席から息子たちが「マミー」と言うのが聞こえる。ずっと泣き続けていたのは、卒業生で私だけだった。

 

伊藤葉子(いとうようこ)/プロフィール
ロサンゼルス在住ライター兼翻訳者。米国登録脳神経外科術中モニタリング技師、米国登録臨床検査技師(脳波と誘発電位)。訳書に『免疫バイブル』(WAVE出版)がある。