第13回 オフィスアワー

解剖生理学のクラスは、ラボのほか週に二回講義があった。大講堂で行われたクラスは、毎回1時間25分だった。先生はアラ還暦と思われる、ミセス・ハーマー。細い体に白衣をはおった先生が教室に入ると、緊張感がただよった。銀髪のショートカットに青白い顔で、表情は険しかった。自分の感情をかくさない女性だった。たとえば学生が数分でも遅れて教室に入ってくると、にらみつけていた。近づきにくいかな、というのがみんなの第一印象だった。

アメリカの大学にはオフィスアワーという制度がある。週に二回ほど、ある決まった時間に教授は自分の部屋で待機していなくてはならない。この間はオフィスを開放して、尋ねてきた生徒の質問や相談にのる。授業内容は難しいから、先生に直接説明してもらいたかった。クラス後、思い切ってハーマー先生に尋ねた。
「子連れでオフィスアワーに行ってもいいでしょうか?」
 すると思いがけず、ハーマー先生は笑顔で答えた。
「もちろんよ、私のオフィスにいるメンバーは全員子どもが大好きなのよ」

翌週には、息子を二人連れてオフィスアワーに行った。先生は長男に紙とえんぴつをくれた。眠りかけている次男のため、私は左手でバギーを揺らしながら右手で教科書を開く。この様子を見た先生が言った。
「第二言語でこのクラスを取って大変でしょうね。質問があったら、遠慮しないで来ていいのよ」
 個人的に話してみるとハーマー先生は優しいおばさんで、長男は彼女が大好きになった。

私が骨の名前を家で復習していたときのことだ。自分の顔をさわりながら「頬骨」(zygomatic bone)とつぶやいていると、長男も覚えていた。ある日のオフィスアワーで、彼は自分のほほをさして言った。
「ミセス・ハーマー、zygomatic boneでしょう?」
 先生は大笑いした。

プログラムを終えて就職してから、学校で子ども向けに行われる「サイエンスナイト」へ行った。理工学部を子どもたちに紹介するため、一般公開する日だった。かつて私が解剖生理学のラボを取っていたクラスに行くと、なんとハーマー先生があの白衣を着て説明しているではないか。長男が「ミセス・ハーマー!」と言ってかけよった。

「なんて大きくなったの! 下の子はまだベビーだったのに、こんなに成長して!」
 私は仕事が見つかり、技師として働いていると報告し、先生にお礼を言った。
「一番最初に取った先生のクラスは、難しかったけど面白かったです。だからプログラムも最後までやり遂げることができました。先生のおかげです」
 ハーマー先生は、私をぎゅっと抱きしめてくれた。かなり長い時間ハグしてくれたと思う。

伊藤葉子(いとうようこ)/プロフィール
ロサンゼルス在住ライター兼翻訳者。米国登録脳神経外科術中モニタリング技師、米国登録臨床検査技師(脳波と誘発電位)。訳書に『免疫バイブル』(WAVE出版)がある。