第34回 トレドの老舗のパン屋さん その3

絵を描きたいけれど、自分の本分はパン職人。そうわきまえていたマノロさんは、募る絵への思いを抑え、父親の元で修行を続けていました。やがてトレド生まれの美しい女性と結婚し、家族のために仕事量を増やそうと、祖先の代から使っていた倉庫に、新しいパン工房を開いたのです。

当時の写真があります。

1000個のマドレーヌ作りに励む高校時代のアラセリさん

マノロさんは毎晩4000本のバゲットを作ったと言います。パンが主食であるスペインでは、家族が5人いれば1日4−5本のバゲットを食べても不思議ではありません。1日で全部はけてしまいました。

高校生になった長女アラセリさんも毎週末、妹のプリさんと力を合わせて、1000個のマドレーヌを作りました。それらも1日で完売でした。

「そんなにたくさんのパンを、馬で配達し続けたんですか?」

「うふふ、結婚してからは、べスパを買ったのよ。その後ろにリヤカーを引っ掛けてパンを配達したの」

「やだっ、べスパ(VESPA)!  時代を感じますねぇ〜」

イタリアのスクーター、べスパの前で誇らしげに微笑む白黒写真の中のマノロさんは、温かい家庭に支えらえた幸せと脂の乗った仕事への自信が溢れているようです。

自慢のベスパの前で満面の笑みを浮かべるマノロさん

「とにかく父はよく働いたわ。今の人たちはちょっと疲れるとすぐに弱音を吐くけれど、彼が弱音を吐いたところなんて、見たことがなかった」

夜9時に就寝、夜中1時に起床、2時に仕事開始、3時には焼き、5時には配達準備という毎日に加え、休みは1年に2回、クリスマスの夜と1月1日の夜だけだったという仕事ぶりでした。

私たちの話を聞きながら、(あ、このエピソードを伝えたらどんな顔するかな)といういたずら心を感じる笑顔を、マノロさんが見せました。

「あの大釜はね、パン焼きだけに使ったんじゃないんだよ。わかるかい?」

キョトンとする私に、話し出しました。

「マノロ、この肉を焼いてくれる?」

「このピーマン、焼きピーマンにしてくれる?」

当時、家に石釜やオーブンのある家は非常に少なかったので、マノロさんがパンの配達から戻る昼前になると、近所の主婦たちが、焼いてほしい料理を準備してはお願いに持ってきたと言うのです。

焼くには燃料もかかることから、一品いくらと料金を決めて石釜サービスを始めたところ大人気となり、毎日昼前には、主婦たちの持ってきた料理を焼くいい香りが辺りに漂ったのでした。クリスマスの季節には、ケーキを焼きたい主婦の行列ができたと言います。

娘たちが高校を卒業した70年代後半のある日、マノロさんは、芸術学校の門を叩きました。長年温め続けてきた絵を描く夢を実現させるためです。

45歳になろうとしていました。

仕事は辞めず、夜間クラスに通うことにしました。

こんな年上の学生を、学校も生徒も受け入れてくれるだろうかという心配をよそに、マノロさんは皆に慕われ、素晴らしい成果も収めました。

こうして、パン職人画家マノロが誕生したのです。

この道は、マノロさんの将来を救うことになります。

主婦たちがマノロさんの持つ大釜の恩恵を受けて喜んだのも今は昔。90年代になると、周囲の意識も現代化していき、夜明け前から機械を使うパン工房に対して、「音がうるさい」と苦情が出るようになったからです。

左側に立つマノロさんと比べると巨大さがよくわかる大釜

そのため、マノロさんをはじめ、トレド旧市街で仕事をしていたパン職人たちは、次々と工房を閉鎖。パン職人組合を結成して、旧市街から数キロ離れた工業地帯に共同経営のパン工場を建て、そこでパンを焼いて出荷するという新しい方式の試行錯誤が始まったのです。

しかし、マノロさんの疑問は尽きませんでした。先祖から受け継ぎ、自分なりに改良を重ねて家族と一緒に発展させてきた方法を、新しい流れの中で発揮することは難しい。旧市街の工房を閉じた今、仕事を続行できるだろうか?

同じ頃、マノロさんが生まれ育ったパティオのある家も、動物はもうおらず、建物も古くなったことから、欧州風の集合アパートとして改築することになり、パティオも消えました。

彼が出した結論は一つでした。パン仲間と新しいビジネスに賭ける時間は、ない。今こそ、長年夢見た画家人生の幕を開ける時。

こうして、愛着のあるパン工房を、夢にまで見た絵のアトリエとすることに決めたのです。朝から気が済むまで絵を描いた後は、友達の集まるカフェへ行き、おしゃべりするのを楽しみにする日々が始まりました。

聖書の中でキリストが弟子に教える「主の祈り」に、こんな一行があります。

「私たちに日々のパンを与えてください」

「パン」とは心の糧のこと。心の糧を得て初めて、食べるパンにも感謝ができる。絵三昧の日々の中で、そう実感するようになったマノロさんは、こう断言します。

「僕は、生まれ返っても、絵を描くパン屋になるのだ」と。

 

河合妙香(かわいたえこ)/プロフィール
ライター、フォトグラファー。コーディネーター。大学日本語講師。

短歌が好きで、情熱の歌人・松平盟子先生の門下生として40年間も短歌を書き続けてきた母の訃報が妹からに届いた。慌てて日本に戻った。私の生き方を誰よりもよく理解し、応援してくれた母は、勉強好きな文学少女だった。彼女と約束したプロジェクトをやり遂げることが、私にできる供養。いつまでもそばで見守っていてほしいと心から願う。フォトギャラリーの充実したHPを新調しました。ぜひ立ち寄ってください。www.kimipla.net