第8回(最終回) 最後の難関修士論文 ― そして修士号取得へ

ポーランドの大学で文学修士号を取得するまでの道のりについて綴ってきたエッセイも、今回が最終回。これまで書いてきた7回の内、最初の4回を“修士課程に入るまで”に費やしてしまったため、肝心の講義についてあまり書いていなかったことに気がついた。思い返してみると、行きたいと考えていた期間のほうが、通っていた2年間より長かったわけで、私の中では修士課程で勉強していた時間は瞬く間に過ぎ去ってしまったことを証明しているかのようだ。

今回は、そんな修士課程の中で最も重要であった修士論文についてお話したい。

入学直後に、修士論文ゼミを決めることになった。かつてポーランドの大学は5年制で、修士号を取得して大学を卒業という形をとっていた。その名残か、今でも学生のほとんどが3年間の学士課程の後、2年間の修士課程に進む。修士課程に入る際に修士論文のテーマを聞かれることもなければ、希望の指導教官と前もって話をする必要もなかった。その年にゼミを開講する先生方のリストが貼り出され、自分の書きたい論文の内容と照らし合わせながらゼミを選ぶというものだった。ポーランド文学科は大きいので、ゼミも15ほどあった。

本連載「第3回修士論文は書けそうですか?」でも書いたように、修士論文のテーマはもう決めてあった。日本の大学で「ポーランドの小学校の教科書に掲載されているポーランドの詩」について卒業論文を執筆した際にその作風が気に入った詩人、ヨアンナ・クルモーヴァ(Joanna Kulmowa)だ。クルモーヴァは児童文学作家でもあったので、“詩”と“児童文学”という二つの観点からゼミを探すことにした。

まず目に入ったのは、児童文学をテーマにしたゼミだった。ただ、“英語圏の翻訳児童文学も視野に入れて”という部分が気になる。私が書きたいのはポーランド文学についてであって、英米文学についてではない。

さらにリストを眺めていくと、最後に懐かしい名前を見つけた。2014年に聴講生として通っていた時に知り合った、エルジュビェータ・ヴィニェツカ先生(prof. Elżbieta Winiecka)だ(先生との出会いについては、本連載「第2回 “お試し”修士課程」参照)。しかし、ゼミのタイトルは“デジタルメディア文化”で、私が書こうとしている内容とはかけ離れていた。

詩をテーマにしているゼミもあったが、どんな先生か分からないということが不安だった。そこで、ゼミ初日は顔見知りであるヴィニェツカ先生の元へ伺って、話だけでも聞いてみることにした。嬉しいことに、先生も私のことを覚えていてくださり、私が本当に修士課程に入学できたことを喜んでくださった。私が書きたいと思っているテーマと、ゼミのテーマが合わないけれど、ここを選んでも構わないか尋ねたところ、もちろんOKとの返事。先生のゼミは、デジタルメディアがテーマではあったものの、先生ご自身は詩についての論文を何本も書かれていたので、それが幸運だったのかもしれない。

1年目のゼミでは、修士論文を執筆する上で役立ちそうな本の一部を先生が選んでくださり、それを読んで話し合うというようなものだった。ゼミ生は8人いたが、そのほとんどが論文のテーマを決めかねているような状態だったので、とにかく皆何かしらの情報を必要としていた。選ばれる本はゼミ内容に従って、メディア関係が多かったので、私はそれとは別に自分の論文に役立ちそうな本を紹介してもらい、独自に読み進めていくことにした。

2年目に入るとゼミという形で集まることはなくなり、論文の進み具合に応じて各自個別に先生のところへ行くことになった。ポーランド人学生なら、ポーランド文学を論じるにはポーランドのことだけ述べていればいいのかもしれないが、私にはそれ以外に日本のことについても触れることが求められた。確かに、ポーランドのことについて日本人の私がポーランド人以上に詳しく書こうというのは無理なのだから、“日本人の視点で”クルモーヴァ作品を論じるというのは、私にとっても都合がよかった。それで、先生のアドバイスに従い、論文中には日本で翻訳されているポーランド文学のことや、日本での国語教育についても盛り込むことになった。“詩”についての論文ということで、俳句を研究しているポーランド人の著書も読んだ。どちらかというと川柳に近いようなユーモアにあふれたポーランドの“ハイク”は、私の目には斬新に映った。

2年目の後期の授業が始まる少し前に、夫の仕事の都合で7月から家族そろって半年日本に行くことが決まった。修士論文審査は6月の終わりから7月、または次年度開始直前の9月になってもよいのだが、私の場合それでは間に合わないことになってしまった。そのため、後期のテストは全て5月の終わりまでに済ませられるようにしてもらい、修士論文も予定よりも早く書き上げることになった。まだ授業が終了しないうちに試験勉強をしたり、論文を完成させたりというのは大変だったが、他の仲間がまだ試験期間中で不安そうな顔をしているのを横目に、6月半ばに論文審査が終了し、早々に修士号を取得できたのは嬉しかった。ポーランド文学部の中でも1番目か2番目だったらしく、先生方も驚かれていたとか。

ただ一つの心残りは、誰よりもクルモーヴァさんに読んでもらいたかったのに、それが叶わなかったことだ。修士課程修了のちょうど1年前、2018年6月にこの世を去っていた。その年の3月に90歳の誕生日を迎えられ、まだまだお元気そうだと思っていただけに、間に合わなかったことが残念でならなかった。

こうして私の“ポーランド文学修士への道 in Poland”は無事にゴールにたどり着いた。実は修士号自体は、私にとって淡い憧れでもあり、これまでにそのチャンスは2度訪れていた。1度目は大学生で就職活動をしていたとき。7月に入り、まだ就職先が決まっていなかったので、夏休みまでに決まらなかったら修士課程、いわゆる大学院博士課程前期に進もうかと考え始めた矢先、ある翻訳会社から内定を頂き、そちらに入社することになった。その会社には今でもお世話になっているので、その選択は間違いではなかったと思っている。2度目はその会社で働き始めて2年目の終わり頃、ポーランド児童文学翻訳をするのに十分なポーランド語力が備わっていないどころか、その語学力が落ちていることを感じて、大学時代の恩師に相談したところ、大学院か留学かという話になった。最終的に、児童文学がやりたいのなら、現地に1年は住んでみて、普通の生活の様子を見てみたほうがいいということになり、ポーランド留学の道を選んだのだった。

 

左から、製本して提出した修士論文、修士課程卒業証書が入れられていたフォルダ、修士課程卒業証書。証書に貼られた写真が今でもちょっぴり照れくさい。

修士号を手にして生活が激変したわけでもない。だが、ポーランド語を使うことがずっと楽になり、自信がついたように思う。また、この2年間には難しい論文ばかり読んでいて、そのポーランド語が理解できずに気落ちしていたのだが、卒業後また普通の本を読むようになり、以前よりずっと早く読めるようになっていることに気がついた。

これから先、どんなことが待っているか分からない。でもこの修士課程にまつわる数年間で得たことは私にとっては財産であり、いつまでも私の力になってくれるものと信じている。

 

スプリスガルト友美/プロフィール

ポーランド在住ライター。翻訳にも従事。

これまでこの『地球はとっても丸い』で編集部の一員として、そして執筆者として、大変お世話になりました。世界各国で暮らす様々な方の原稿を読んだり、自分で書いたものを校正して頂いたりしながら、たくさんのことを学ばせて頂きました。大変感謝しています。

そして読者の皆様、これまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

共著『ポーランド・ポズナンの少女たち~イェジッツェ物語シリーズ22作と遊ぶ』(未知谷)
ブログ「ポーランドで読んで、ポーランドを書いて」